ホリモクスタッフの話

後藤公伊知のエピソード

いつもお世話になりありがとうございます。 後藤です。

二〇一六年も早半年が過ぎ、いよいよ夏本番を迎えようとしております。

皆様お身体お変わりなくお過ごしでしょうか?

今年の梅雨は幸いなことにうんざりするような、

雨も降らず(蒸し暑いのは変わらずですが・・・)、

又、台風もいまだに発生していないとか、他県にて被災された皆様には大変お気の毒で、

心からお見舞いを申し上げます。

昨年の鬼怒川決壊や熊本地震、さらには追い打ちをかける様に大雨の被害、

自然の驚異を感じさせられております。

私は海津(海津でも最北で輪之内寄り)に住んでおりますが、

テレビでの映像を見ると40年前のことを思い出し、妻と話をしています。

9・12。ご記憶にある方もお見えになると思います。当時10歳でした。

ほぼ堤防下に住んでおりましたので、

親父と一緒に毎日のように長良川を見に行っていたように思います。

決壊する前日か当日かそこまでの記憶がありませんが、

堤防からしゃがんで手が洗える状態だったのははっきり覚えがありますし、

親父が「向こう見てみよ!」(当時のありのままの言葉です)

と言いながら上流を指差ました。

自分はその状況を目にしたとき、体中に鳥肌が立ち、

本当に怖かったのが今でもよみがえります。

皆さんの中にも堤防を車で走行されたことあると思いますが、

その堤防があの時蛇行(うねっていたと言った方がいいでしょうか)していたのです。

たぶん自分が立っていた所もそういう状況だったと思いますが、

あの光景はしっかりと脳裏に焼き付いています。

その後、ご存じのとおり安八大森地区にて決壊。

当然水は低い方へと流れる為、一番下流の海津町から、

輪中堤防の切り割りを水止めする為に、かなりの大型ダンプがきて土嚢(どのう)を運び、

瞬く間に積んでいったそうです。

(これは成人になってからある人より聞いた話です)

その為、海津は輪中堤防に守られ水は逆流。

本来なら墨俣地区、本巣地区まではほぼ考えられなかった被害が出てしまい、

下流は何の被害もなかったのは、そんな理由があったからです。

うちの嫁も被災した家族でしたので大変だったと話は聞いています。

「切れたらしい!」

聞いた時点で我が家(ほかの皆さんも同様だったでしょう)

は家具その他を2階へ、後の笑い話ではないですが、

火事場の馬鹿力とはこのことで、何がなんやらわからないまま上へあげました。

記憶があるのは親父が仏壇を(仏間の上は押入れ)仏間の天井を外し、押入れの床もめくり、

チェーンブロックで2階へあげた事、

大工でしたから、機械もののモーターなどを外して上にあげた事、

畳をめくりあげ、より高くするため台の上に等々、

子供心にすごいと思ったのと、恐怖しかなかったと思います。

よく考えれば、輪中がなかったらそんな時間さえなかったのではないかと考えさせられます。

水が引いたあとの片付けの時「どうやって上げた?」って感じで逆に下に降ろす時の方が

大変だったのも覚えています。

現在は河口堰ができ、「今日は水が多いな」と見えたとしても

河川敷に水がつかる程度で大水になることまずありません。

しかし、まだ揖斐川がありますのでいまだ安心はできませんが・・・。

まだまだ、伝えきれないこともありますが、今回は幼少時の話をさせていただきました。

いつも最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

 今後、何が起こるかわかりません。

防災対策をされることも一つの出来る事かなと思いますし、

健康であることが大事だと思いますので、これからもお体には十分お気を付けられ、

毎日を元気に過ごして頂きたいと思います。

 私自身も、今後日々努力致しますのでよろしくお願いします。

ありがとうございました。